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2024/08/01
【ご注意】
弊社ヤフオク掲載中の画像や商品と説明文及びタイトル等をそのまま転載し
同時期または終了取消をした商品を、別のECサイト等で価格を減額し販売している
業者が散見されております。
詐欺サイトですので絶対に決済されないようご注意下さい!
※弊社とは一切関係がございません。発見次第、通報致します。
また、被害にあわれましても当方ではご対応できかねますのでご注意下さい。
以下にあてはまる業者には一度ご注意の上、慎重なご判断をお願い致します。
@会社概要の代表電話番号が携帯電話番号になっており、常時不通。
A会社概要の代表FAX番号が携帯電話の番号になっている。
B古本屋さんHPなどの類似コピーサイトを複数展開している。
C定価販売から商品価格を割引して表記しているなど。
上記、サイトにはお気を付けて下さい。
Gallery代行堂広報:S-2024_08_01
2024/05/05
2024/04/23
ご利用者 各位
拝啓 若草の候 皆様におかれましては益々ご清栄の事と心よりお慶び申し上げます。
いつも格別のご高配にあずかり、厚くお礼申し上げます。
この度、事務所移転に伴い、皆様には多大なご迷惑及びご心配をお掛けしましたことを
深くお詫び申し上げます。無事に移転を完了し事業再開する運びとなりました。
これからも変わらぬご支援ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 敬具
2024/02/27
2023/12/20
お客様各位
拝啓 師走の候 皆様におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
平素は格別のご愛顧を賜り厚く御礼申し上げます。敬具
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弊社では年末年始にあたり、下記のとおり休業とさせていただきます。
期間中、お客様には大変ご不便をおかけ致しますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。
今年一年のご愛顧に心より感謝申し上げますとともに、来年も変わらぬお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。
2023/07/14
ここ数カ月で正規鑑定代行のご依頼が多くなりました。
物価高騰や円安・株高などの影響を踏まえ、絵画の売却や保持を考えると美術品投資家や収集家の心理は一つ。
「それが本物か否か…」真贋が一番気になるところに存じます。
そこで先日、この様な案件を頂きました。
「坂本繁二郎画伯、水彩画の正規鑑定代行を依頼したい…」
東京美術倶楽部HPによると坂本繁二郎は東美鑑定評価機構におきまして正規鑑定を行っております。
お客様より事前にご連絡を頂き、弊社で東美鑑定評価機構に水彩画であることを確認をしたところ油彩と水彩画
では鑑定場所が異なるとのことでした。
整理をしますと以下の通りです。
坂本繁二郎 油彩=東美鑑定評価機構にて鑑定(東京都)※直接の持込のみ鑑定対応
坂本繁二郎 水彩=画廊さかもと にて鑑定(福岡県)※直接の持込のみ鑑定対応
正規鑑定料金は水彩・油彩共に鑑定料金3万円・証書発行に3万円です。
弊社では現在、都内・近郊までの正規鑑定は直接持込が可能です。
今回の件は、福岡県となり弊社での直接対応が出来かねる為、お客様にはご期待に沿えず申し訳ない思いです。
鑑定のご依頼はお問合せメールから作者と作品につきまして、先ずはご一報いただければ幸いです。
お問い合わせはお気軽にお問合せ下さい。
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坂本繁二郎
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期〜昭和期の洋画家である。
1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。
坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は久留米藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。
代用教員時代(20歳)
前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。
1907年(明治40年)、『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。
1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。
1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。
1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。
第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1947年日本芸術院会員になることを辞退した。1954年(昭和29年)、毎日美術賞、1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。 1969年(昭和44年)、八女市内で87歳で没した[1]。墓所は八女市無量寿院。坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。 【ウイキペディアより】
ギャラリー代行堂
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